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油彩画家・伊藤ノリヒコのトピックス
世界80カ国を旅したエピソードを、現在と過去を織り交ぜながら公開してゆきます。
乞期待!
お問い合わせ先
伊藤ノリヒコ
〒297-0002千葉県茂原市千町3819-13
TEL&FAX 0475-25-2810
Eメールi-tomoe@beige.plala.or.jp
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2004年3月12日
3月12日富山県砺波市トルコ友好交流協会の総会にトルコの話の記念講演のご招待をいただき行ってきました。

礪波市はチューリップが縁でトルコのヤロバ市と姉妹都市を結んでいます。独創性豊に国際的な活動をされておられて、
目を瞠る思いをいたしました。写真は、そのとき、チューリップ博物館、井波等いろいろご案内いただきました中の白川の合掌造りのスナップです。
今ご案内いただきました残雪の絵を描きはじめております。
2003年.12.1.UP
今秋来日されたエチオピアメレス・ゼナウィ首相閣下(中央)を囲んで朝食会(赤坂プリンスホテル)
今秋第3回アフリカ開発会議が日本で開催され、(私も去る5月、それにちなんでJICA主催でアフリカを主軸にした
展覧会を開催いたしましたが)エチオピアのメレス・ゼナウィ首相閣下も来日され、再会いたしました。三回とも来日された
メレス首相閣下にお会いしたのは、この写真の中では私一人でありました。
2003年10月23日
エチオピア特命全権大使に泉堅二郎氏がご就任されることになり、日本を
お発ちになる前、お祝いをかねて送別会が開催されました。
泉堅二郎大使閣下を囲んで(中央)

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2003.10.31.UP
今月は私にに若者に目を向けさせることが2つ起きた。一つは下記の世界の動きの記事。2つ目は
10月26日(日)京都文教大学の学生さんと先生14人が京都からわざわざ僕の世界の旅の
話を聞きに見えられた。
私のの旅の話講義(一の宮、東松館にて)
アトリエの庭でバーベーキューで乾杯!
学生たちは今、エチオピアの子供達に学校を自分たちのボランテイアで作る準備をしている。
エチオピに深い想い入れをしながら描き続けている私に白矢のまとをあて、エイオピアの話を
含めて世界の話を聞きにこられたのである。
学内だけの教育ではなく、外の世界の話を聞かせることにより、より生きた教育ができると
野外セミナーに先生が連れてこられたのである。
私は、アーチストととしての視点から話をした。
ボランテイアも全く新しい21世紀がたの個のボランテイアを模索するようにと話す。
そして学生のうちからしっかり自分の目指すものを見つけること。
大学生のうちから海外に目を向け、世界貢献を目指す。これこそ21世紀がたの
教育であり、ボランテアかもしれないと想った。
講義の後、アトリエの庭ででバーベーキューをし、夜の更けるのも忘れて語りあった。
右の写真は九十九里海岸
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2003.10.1.UP
03年10月1日発行の「世界の動き」外務省編集協力の雑誌に私ののインタビュー記事が掲載されました。
この雑誌は中学生、高校生を対象に編集された雑誌です。全国の図書館等に配布されています。
この5月JICA主催の僕の個展をご覧になられた関係者の方が、個展に感動され、お声をかけていただいた
のがきっかけで掲載していただくことになりました。
未来を担う子供たちへ僕の伝えたいメッセージを贈ることが出来、喜んでおります。この掲載が、私の目を
子供たちに向けさせてくれることになりました。今後は子供たちに向けて発信できればと想っております。
「以下全文を掲載」
 
見て感じるままに世界を描く
画家 伊藤ノリヒコ
外国への目覚め
1人で旅をしながら世界を回り、「文明の光景」を題材に油絵を描き続けている伊藤ノリヒコさん。これまでに訪れた国は、アジア、中東、中米、南米、アフリカ、ヨーロッパなど80カ国、描いた絵は数百点にのぼります。
広島県出身の伊藤さんは、7歳の時、広島市内で働いていた近所の青年と救援活動に向かった父親が、原子爆弾による被爆で苦しむ姿を目の当たりにし、その恐怖を実感しました。
まもなく第2次世界大戦が終結し、町に駐留軍の米英兵士たちがやって来ました。彼らとの出会いが、伊藤さんに外国へ目を向けさせたといいます。
「私が最初に覚えた英語は"hungry"。"hungry"と叫ぶと、彼らがキャンデーやチョコレートをくれるからです。こんなにおいしいお菓子があるんだという驚きとともに、欧米の豊かさを感じ、憧れを抱いたものでした」。
インドで体験した無力感
絵が好きだった伊藤さんは、叔父さんから、当時珍しかった油絵の具をもらったことをきっかけに、絵の世界にのめりこんでいきます。高校卒業後は、東京の美術学校に進学し、本格的に画家への道を志しました。
しかし、現実は厳しく、卒業後はプロの画家になることを断念。生活のために雑誌社などに勤めるかたわらで、日本の四季と自然をテーマに創作活動を続けました。
ところが、丁度40歳ななった時、心境に変化が訪れます。
「被爆の影響で父が亡くなり、また次には妻の兄が若くして亡くなりました。身近な人の死を目の当たりにするうちに、私の中で、もう1度原点に戻って、本当に好きな絵の道をやり直したいという気持ちが強くなってきたのです」。
「絵の世界で生きていこう」と決心し、会社を辞めて再出発した伊藤さん。1984年の中国を始まりに、タイ、ネパール、インド、トルコと、毎年、絵の題材を求めアジアを西に向かって旅に出ました。
最も衝撃を受けたのはインドでした。気温40℃を超える厳しい暑さ、多種多様な民族、根強いカースト制度*、厳しい貧富の格差……。そこでは、あらゆるものが混沌としていました。
特に忘れられないのは、マザーテレサが運営する病院に向かう途中で見た光景だといいます。
「泥だらけのバラックが立ち並ぶ貧民街と、背景に建つ白亜の病棟。その色合いの対比に圧倒されました。病院の周辺にはハンセン病患者など、病院の中に入れない大勢の病人たちがひしめいていました」。
2カ月間の滞在で、インド社会に存在する厳しい現実を知るとともに、自分では手の施しようがない無力感を体験しました。
現場を見つめ、描き続ける
伊藤さんは、人類発祥の地といわれるエチオピアへの訪問を契機に、人類が、アフリカ大陸からユーラシア大陸を経て南米へと大移動したという学説に興味を抱くようになりました。
そして、南米のチリで、その正当性を実感する経験をしたそうです。
「市場で、赤ん坊をおんぶして歩いている日本人そっくりのおばさんたち見かけたのです。思わず『こんにちは』と声をかけました。おばさんは訳がわからず笑っているだけでしたが、私は、先祖が一緒であるということを確信しました」。
何百万年もさかのぼっていけば、人類の祖先はみな同じと考えることで、偏見や先入観のない視点をもって、各国の文明や風景を捉えることができるようになったといいます。
「僕は画家ですから、"見る"ことに尽きます。その風土や人間を見つめ、本質を探っていく姿勢を持ち続け、そして感じたままを絵に表現していくことを大切にしていきたいですね」。
現場に立つと、作品の心象が広がっていくという伊藤さん。
唯一の作品発表の場である個展では、1人でも多くの人に絵を見てもらい、何かを感じてほしいといいます。
世界を描く旅はこれからも続きます。
*インド特有の身分制度
messeage
多様化する現代社会では、はっきりした目標は定めにくいと思いますが、原点となった志や目標は、何十年たっても立ち戻ることができるものです。
青春時代は短く、宝石のように貴重な時期。ぜひ自分がやりたい何かを発見してください。
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2003.4.1up
JICA広報誌「国際協力」の4月号にトルコについての記事を私が書きましたので
以下掲載いたします。
  
掲載文
トルコ人の温かさが原点
トルコをずっと描き続けている画家の伊藤則彦さん。初めて出かけた時のトルコの温かな印象が今も心に残り、トルコとの付き合いが続いている。
出会いは15年前
1988年11月、トルコに行くことにした。当時は直行便などなく、ギリシャ・アテネ径由であった。ギリシャ人はトルコのことをコンスタンチと呼んでいた。
トルコ随一の大都会、イスタンブールはかってローマ帝国の都として栄えたコンスタンチノーブルだからだ。なるほど、ギリシャとトルコは古い歴史の中で生きているのだという感じを受けた。
小型の飛行機はイズミール、イスタンブール行きであった。
降り立ったイスタンブールは小雨が降り、底冷えの寒さであった。
翌日から早速金角湾・ガラタ橋周辺を歩き回った。
当時のガラタ橋は、浮き橋の2階建てで、1階ではシシカバブーのにおいがし、ついつい足が向くのであった。またその頃のイスタンブールの大バザールは迷路のような通路であった。ほこりくさい通路はいけどもいけども小さい店がびっしり並んでいた。道端では、ビニールを広げた上に商品を並べ、移動する時はビニールの端を引っ張って移動していた。それを見て僕は、人間生きようと思ったら、どんな方法でもあるものだと教えられるのであった。
一週間イスタンブールに滞在し、トルコになじんだ頃を見はからって、バス旅行に出かけることにした。
バスに乗ると、運転手の助手が早速、手にコロンをふりかけてくれた。それがとても珍しくて新鮮だった。
しばらくすると、乗り合わせたトルコの御婦人が子供を通じてキャンデイーを届けてくれた。異国で心細い思いをしているところに、温かい人の情である。トルコ人が親日的であると聞いてはいたが、本当に身をもって実感した。バスを乗り換え、アンカラ、イズミールと、トルコをほぼ一周した。
アンタルヤでは朝早く、銀行にチェンジに駆け込んだ。すると、しばらくしてカウンターにチャイが出できたではないか!トルコならわである。その一杯の美味かったことが今も鮮明によみがえってくる。またエフェソスでは、到着してみると嵐だった。びしゅぬれになって宿についた。自分の部屋で寒さに震えていたら、トントンとドアをたたく人がいる。誰だろうと思ってドアを開けたら、宿のマダムがスープを運んできてくれたのであった。温かいスープは僕を生き返らせ、スープがこんなにも美味しいものだったのかと感激した。それにも増し、トルコ人の温かい思いやりに僕は涙が出るほど感謝した。
とるこ土耳古人の先祖は、小アジアにいた遊牧、騎馬民族である。移動を繰り返し、アジア大陸の西に定住したのである。
旅行中、いたるところでアジアの血が流れていることを感じた。相手を思いやり、親切にしてくれるところなど、日本人とも通じ合えるものを感じる。
変わっていくトルコ
トルコも時代と共に変わってきている。
1999年、日・土文化交流会館が完成し、そこで僕の個展をという話があった。
会場を見てみたいと思い、10名のツアーを組んで、久しぶりに10日間のトルコ旅行に出かけた。
エフェソス、カッパドキアと回ったのだが、観光化が進みあまりにも変わってしまっていて驚いた。
帰国してすぐに、トルコ大地震が2回起きた。
大好きなトルコの方々が震災で苦しんでいることに、居ても立ってもいられない気持ちで僕は、チャリテー個展をすぐに2回開催した。
日本の皆さんの温かい義援金を駐日トルコ共和国大使館を通じてお届けし、ヤマン・バシクット大使よりトルコを代表して感謝のお言葉をいただいたエピソードがある。
僕のとってのトルコは、初めて訪れた印象が源流になっている。
訪れるたびに世界の流れの中に同化して行くトルコを感じる。
僕は今、1911年(明治44年)発行の「土耳古画観」(山田寅次郎著)を開き、時間的、空間的にも土耳古人を追憶している。寅次郎が見た東西文明の十字路、ボスポラス海峡は、悠久の時を経た今も変わっていないことを改めて実感しているのである。
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2002年10月29日(火)
トルコ共和国大使館にてヤマン・バシュクット大使閣下
任期最後のトルコ・ナショナル・ディーに出席。
ヤマン・バシュクット大使閣下の送別会を兼ねた
トルコ・ナシュナル・ディーだった。
大使閣下ご夫妻には任期4年間、大変親しく接していただいた。
新任されてすぐに、新潟県の柏崎トルコ村、緑の美術館での
個展の際に、ご臨席いただいたのが最初の出会いであった。
1999年トルコで個展を開く企画があり、その関連として、旅行者を募り
トルコ旅行に出かけた。
帰国してすぐにトルコ大地震が起きた。
早速、銀座でチャリテー個展を開いた際、大使閣下にもご臨席いただいた。
そのとき、日本の皆さまがチャリテーに協力して下さることに大変お喜びに
なられたことがとても印象深く記憶に残っている。
ご協力をいただいた方のお名前を添えて、チャリテー義援金は直接、
ヤマン・バシュクット閣下にお渡した。
大使閣下がとても感激されておられた姿が忘れられない。
2001年の銀座での僕の個展のときは、題材が他国の個展であったのにも
かかわらず、ご臨席いただいた。
この感激は一生忘れられない。
閣下は人様をとても温かく包みこむようなお人柄で、僕はすっかり魅了されている。
公私にわたり親しく接していただき、感謝の気持ちでいっぱいである。
10月29日、会場の大使館に一番乗りで出席し、
「ご苦労様でした。イスタンブールでお会いしたいものです」と申しあげると、
「私も楽しみにしている」と言っていただいた。
今から約束の果たせる日をたのしみにしている。
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02年10月29日 トルコ・ナショナル・デー
遠山文部大臣、大使閣下夫人、写真家並河萬里氏
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02年10月29日 トルコ・ナショナル・デー
ヤマン・バシュクット大使閣下夫人と
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1999年大使閣下ご夫妻と柏崎トルコ村緑の美術館
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1999年トルコ大地震チャリテイー個展オープニングセレモニー
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トルコ大地震義援金、名簿を添えてお渡しする
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トルコ大使閣下より義援金の感謝状いただく
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2002.8.10.UP
2002年8月7日
エチオピア連邦民主共和国駐日全権大使閣下新任!
表敬訪問する。
エチオピアは1994年ナイルの原流を探し求めてエチオピアの
ティシィサットの滝にたどり着いた。
それが縁でエチオピアにその後も 何回か旅をする。
沢山エピソードがあリ、想い入れの深い国です。
今回は初めてエチオピアを訪問した時の写真を交えて公開します。
写真をクリックすると拡大できます。
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